■山本泰山
明治32年〜昭和56年
大正初期に日比野日比野雷風の門をたたき剣道、剣武を始め,神明流居合を池田伊勢五郎師に学んだ。
昭和6年に長男(晃正)を神刀流木崎正道に預け剣舞を習わせ、自らも剣舞と地吟を研究した。
昭和11年陸軍技術本部を退職し。新宿区西大久保に道場を開いた。特に少年の育成に力を入れ、剣道と剣舞を子供たちに
教える傍ら、昭和14年より柳澤義正師に師事し神刀流居合を習得した。
一方、大正7年錦心流琵琶の稲垣寛水師に師事していたが、昭和初期には詩吟に転じた。、戦中は日本芸能挺身隊として
台湾、南支、満州、朝鮮の舞台をたびたび慰問し、陸軍、海軍、国立病院、神社、警視庁、消防署、会社、学校などで詩吟、
剣舞、居合を披露、指導した。
戦後、まもなく道場再開を決意、GHQによって禁止されていた武道のうち、特に真剣を使う居合、剣武の解禁にいち早く奔走した。
芸能、芸道、日本文化としてマッカーサーに理解を求める嘆願書を出し、積極的にGHQ本部などで演武披露した。
詩吟は泰山流、居合剣舞は神刀神明流を旗揚げし門人の育成に取り組んだ。
財団法人日本吟剣詩舞振興会創立には評議員として関与した。
また日本クラウン吟友会専属となり全朗文化協会関東本部長を務めた。
剣舞では全日本剣舞道連盟に所属し関東総局長を務めた。
昭和53年吟詠道普及の功積が認められ天皇陛下より木杯を賜った。
昭和56年82歳にて没した。
告別式は新宿太宗寺にて行われた。(葬儀委員長は財団法人吟剣詩舞振興会創始会長笹川良一氏)
■戦後の居合、剣舞の復興
山本泰山は戦後GHQによって禁止されていた武道のうち、特に真剣を使う居合、剣武の解禁にいち早く奔走した。
芸能、芸道、日本文化としてマッカーサーに理解を求める嘆願書を出し、積極的にGHQ本部などで演武披露した。
昭和29年〜30年にかけ米空軍操縦教官にて西大久保道場にて、神刀流居合を伝授。
日本の刀剣文化をアメリカに紹介、日本の居合、剣道、剣武、詩吟に対する理解を希求した。
同軍曹の当時の居合試し切りの映像が米軍データベース残っているが、いかにもショービジネス大国アメリカらしいく
大道芸居合術となっていた。国内でも当時の新聞で紹介され話題となった。
参考資料
昭和31年 米空軍操縦教官フランシスコ氏に神刀神明流居合二段を授与。
トップへ戻る